慶應義塾医学振興基金パンフレット
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KEIO UNIVERSITYMEDICAL SCIENCE FUND寄付者慶應義塾の創設者 慶應義塾の創設者である福澤諭吉は、封建制度の終焉と開国を迎えた激動の時代を生きた思想家でした。西暦1853年のペリー来航は、18歳の福澤に外国に対する新鮮な興味を呼び起こしました。当時唯一外国人に開港されており、西洋の文化と科学の伝来の中心地であった長崎に赴いた福澤は、その後大坂に移り、西洋の諸制度と科学に関する新しい知識を得るために蘭学を学びます。そして1858年には江戸に移り慶應義塾を創立。福澤は、教壇に立ってから最初の10年間で、徳川幕府の外交使節団と共に米国へ二度、欧州諸国へ一度の渡航を果たします。視察中福澤は多くを学び、多くの書物を持ち帰り、短期間のうちに様々な西洋文化と知識を驚異的な速度で習得し、慶應義塾のみならず広く社会に還元しました。福澤 諭吉(1835-1901)坂口 光洋氏(1914-2003)さかぐちみつなだ 1914年10月1日生まれ。1940年慶應義塾大学医学部卒業。生理学教室・内科学教室・解剖学教室に勤務。1945年慶應義塾より医学博士を授かる。1948年より日本大学医学部解剖学教室にて研究・教育に従事。その後、整形外科医院を開業。2003年12月13日逝去。なお氏の父君は、アルギニン等のN-モノ置換グアニジン誘導体の鋭敏な検出反応である坂口反応(1925)を考案された坂口昌洋博士である。初代医学部長 慶應医学部は慶應義塾大学で4番目の学部として1917年に開設され、その初代学部長に就任したのが北里柴三郎です。北里は青年期に政府の研究員としてドイツに派遣され、ローベルト・コッホ博士のもとで研究に励み、細菌学の分野で世界的に認められるようになりました。1892年に帰国すると、日本政府は彼に公職を与えましたが、研究設備を用意することはありませんでした。これを知った福澤は、早速私財を投じて北里に研究室を提供します。それ以来北里は、慶應義塾大学に医学部設立を検討していた福澤を中心とする計画に加わり、日本の医学教育を率いることになりました。北里の門下から多くの優れた医学者が輩出され、この新しい学部はほどなくして医学・生命科学における日本の礎となったのです。北里 柴三郎(1852-1931)3

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